旅行記録

石川町に行ってきた!

2011/7/20

 石川町? 中華街じゃないんですか? といったボケをかましそうなほど、福島県の地理に疎い。どこにあるのかもよく分かっていない町に、いったいなんで出かけたのか? それは、翻訳家の和爾桃子さんが、石川町にボランティアに行く、というので、私も私も……と言って、金魚のフンの如くにお伴させてもらうことになったからである。

 石川町の場所については、以下の地図を参照してね。
放射能拡散地図
白河といわきの点を結んだ中央の白い地帯に、石川町はある。このくさびを打ち込んだみたいに汚染を免れている地域に石川町を含む石川郡や、何かと有名な矢祭町を含む東白川郡がある。両郡は周辺と較べると放射線量が低いのだが、石川町と矢祭町はとりわけ低い。

 ボランティアって農園の手伝いでもするんかなあ~と考えていたところ、どういうわけか、「ボランティア? 滅相もない。石川町をご案内しますから、見ていってくださいよ」という話になり、町役場の人に案内されての「視察」のごときものになった。私たち一般人が「視察」しても何の意味もないと思うのだが、今さら引くに引けず、「先生」と呼ばれて身の縮む思いをするということとあいなった。

 和爾桃子さんと石川町の関係について少し説明しておこう。和爾さんは東京在住だが、「大宮のような北」には行ったことがない、とおっしゃるほどに北部と縁がない。もちろん石川町には地縁血縁は一切ないのである。だがこの震災時に、楽天にある自然食品店・自然堂本舗を通じて、石川町との親交が生まれた。5月、和爾さんの呼びかけで、石川町に避難している被災者に本を送ることになった。ここに及ばずながら私も参加し、まったく縁のなかった同町にささやかな縁を持った次第である。

 さて、7月20日、朝の8時に大宮駅から新幹線やまびこに乗り、上野から乗車した和爾さんと合流。新白河までの1時間、いつもながらに興味深い和爾さんのお話をうかがううちに、あっという間に新白河に到着……したつもりだった。新白河駅に果樹園主で町議会議長の大野峯さんが車で迎えに来てくれるという話だったのに、影も形もない。まだ九時前だし……って? 九時五分着なのに、九時前に新幹線が着いちゃまずいんじゃないの?! と思って見れば、そこは、一つ手前の駅、那須塩原だった。あちゃー。私が「那須塩原の次は新白河」というアナウンスを「次は新白河」と聞き違えたのだった……。やむなく次発の新幹線に乗り、40分遅刻で新白河に到着。のっけからとんでもない大ポカである。以後の予定がいろいろと狂ったため、案内役の大野さんは、行く先々で経緯を説明することになり、「間違えて那須塩原で降りてしまった」ことが、出会ったすべての人に伝わったのであった……。

町役場から案内に来てくださったのは、産業振興課の課長補佐(産業支援・直売施設担当)吉田浩人さん。自己PRを一言でどうぞ。
「えーと、嘘をつかない人間だということでこの仕事を任されとります」
嘘をつかない……東電・政府のオエラ方は吉田さんの爪の垢でも煎じて呑むがよい。和爾さんの提言などを全部こまめにメモを取り、実直を絵に描いたような感じの方である。 吉田浩人 7/21福島県八重洲観光交流館前にて

まずは、新白河から大野さんの農園へ向かう。このあたりは広い郡山盆地の一部で、一面に大きな区画の水田が見える。20分ほど東に向かって走ると、土の感じが変わってくる。白河は火山灰の土地だが、石川はそうではないのだという。土いじりに目のない和爾さんは、良い土だと感嘆することしきり。そういうことに疎い私にも、丈のそろった稲が延々と続く水田を見れば、裕福な土地柄であることはよくわかる。途中、じゅんさいが採れるという池のある公園を通り、遠目に睡蓮の花がきれいに咲いているのが見えた。

大野農園は、リンゴ、梨、桃を栽培している。かなり大きな農園だ。
桃の畑の中に入らせてもらった。
大野農園の桃の木この桃の木はけっこう古い

石川ではもともとはリンゴの果樹が多かったが、若い頃の大野夫妻は、自分たちの自由になるお金がほしくて、小遣い稼ぎのつもりで桃の栽培にチャレンジしたのだという。今では早生の日川白鳳など、桃は石川町の特産の一つになっている。大野夫妻は石川町の桃生産の先駆者だったのだ。
「妻には頭が上がらないんですよ~」という大野さんの言葉を聞きながら、大野さん宅へ向かう。大野さんの言葉は、よくある女房自慢の一つの形と聞き流していたが、夫人にお会いして、まさに言葉通りなのだということがわかった。
両腕が腱鞘炎になるほど果樹栽培に懸命に取り組み、桃のことならば夫の上手をゆく。
「桃の収穫どきはとても微妙なので、経験とコツが必要。大野に任せると不安なの」と夫人は言う。どうやら大野さんは収穫が得手ではない様子。夫人は家庭内ばかりでなく農園でも主導権を握っているようだ。そればかりか、いかにもやさしげな、かなりの美人なのである。残念ながら写真は撮り損ねたが、一見したところではとても農家の主婦には見えないし、28歳の息子がいるようにも見えない。息子さんは農園を継ぐ予定で、果実の加工にも意欲を見せているというしっかり者。天はしばしばこのように不公平である。

 次いで、春には花が見事に咲きそろうという川沿いの桜並木を横に眺めつつ、町役場へと向かう。この役場が、感動物だった。中途半端に古い(失礼)のである。文化財になるような、木造の役場というのならそれはそれで保存され、遺されていることもあるだろう。しかし、石川町役場は、昭和30年代というおもむき。地方の自治体では、私の住んでいる北杜市でもそうだけれど、役場はみんな立派だ。そうやって土建業に金を回しているのだ。石川町ではそんなことはしていないのであろう。しかもそんな古い役場が、地震でもまったく損傷しなかったという。しっかりと施工された建物だったということが実証された形である。良い物は保つ、という見本。
石川町役場  町役場外観

石川町役場  役場内部・天井では扇風機が回っている

石川町役場 役場内に畳の部屋

町長は2006年に着任した加納武夫氏。生地は出雲で、19歳で故郷を出てからは、各地に暮らしたという。福島に住まうことも30年以上で、すっかり東北人だという。
大野さんによれば、「町長は桜の話を始めると止まらない」のだそうだが、桜の話は出なかった。当然、震災の話、復興の話となり、「20年、30年先を見据えて、町民のために政策を考えていかなければならない。中央にも石川町の立場を訴えたい」と熱っぽく語ってくれた。
石川町長 加納武夫町長

 その後、大野さんの縁者の経営するそばと焼肉の店へ行き、お昼をごちそうになった。昼食時には、岩盤が堅固で地震に強い石川町ということで、企業が誘致できないものか、というような話になった。地価も驚くほど安い。と言っても農地がほとんどなので、簡単には売れやしないのだが、その点についてはさまざまな方策が立てられるようだ。安全さということを前面に押し出すのであれば、データセンターやサーバーのようなものに可能性はないだろうか、と素人っぽく考えた。

 午後には「みんなの農園」へ。ここは石川町に避難している被災者に、農作業をしてもらうためのささやかな畑である。、母畑ダムの開発の時以来、耕作放棄されていた土地だとのこと。そこにトラクターを入れたところ、ごろた石が多数あって、トラクタの歯が折れるというハプニングまであったそうだ。すすきやまこもなどの根も多数掘り返した痕があった。このたいへんな土地の手入れには、母畑自治センターの方たちと、産業振興課の吉田さんが主に当たったという。そうして耕された土地に、和爾さんが送った、珍しい外国の野菜の苗と、とうもろこしが植えられていた。ビーツやエンドウの変わった品種の若芽が、まだかなり小さくはあるが、伸びている。石川町には、安全靴で有名なミドリ安全のシューズ部門の工場があるが、そこから贈られたという長靴を拝借し、畑の中に入った。雨のあとなので土が軟らかく湿っている。農作業が大好きな和爾さんは自前の長靴で、嬉々として畑の中を歩き回る。本当は、ここで農作業ボランティアをしようと考えていたのだろう。しかし、まだ苗を植えたばかり、芽が出たばかり、という状態で、雑草取りの用もないのだった。
みんなの農園 みんなの農園 きれいに整備されている

畑から、県下随一の温泉旅館・八幡屋が見える。ここにも広野町の被災者が大勢避難していて、そのうちの何名かが畑に水やりに来ているということだった。
八幡屋 八幡屋
八幡屋も「フクシマ&フクシマ産は危険」という一律の認識=風評被害を受け、すっかりお客が減っているという。もちろんほかの旅館、観光施設も同様である。とにもかくにも石川町は会津地方同様に安全な地域なのだということを、一人でも多くの消費者に伝えるほかはないのだろう。

 最後に訪れたのは、81棟のハウスで葉菜の周年栽培をしている野菜農園・御光福園芸。社長の吉田常一さんが、養液土耕の減肥栽培、ハウス内管理による低農薬、えぐみのないほうれん草にかける思いをとうとうと語ってくれた。
御光福農園 一面ハウス

御光福農園 トマトがもうすぐ収穫できそう
御光福農園 ほうれん草
震災後に福島県産のほうれん草は一律出荷停止となった。吉田さんのほうれん草も、放射線が検出されなかったにもかかわらず、廃棄せざるを得なかった。今は出荷可能となり、大口の契約も決まり、幼いほうれん草を育てている最中だ。8月からはナチュラル&オーガニック ネットスーパーOisix でも取り扱ってもらえることになったとか。「不屈の東北魂の体現者」という言葉を吉田さんに贈りたい。

 御光福のハウス見学後、新白河駅まで送ってもらって、午後3時過ぎの新幹線に乗った。家に帰り着いたのは4時半。本当に近いのだ、と思ったことだった。石川町にほど近い、行政区分で言うと石川町と同じ地域になる郡山にも知人・友人がいる。石川に較べれば郡山の汚染度は高い。そこまでの距離もまた近いわけだ。日本の国土は狭く、どんな原発事故も、日本では取り返しがつかない。
白河から石川町へと至る郡山盆地の水田風景が、鮮やかな緑が今も目に浮かぶ。汚染地図を見ればわかるように、石川町は僥倖に恵まれ、辛くも汚染を免れたが、ここから郡山の方へと北上していけば、汚染の度合いは高まってゆく。そこにも、同じような緑の水田が広がっているはずだ。なにしろ郡山盆地は日本の米どころの一つなのだ。そのような土地に、私たちは何をしてしまったのか。考えるだに空恐ろしいのである。

 さて、石川町では過分なもてなしを受けた私だったが、「石川町びいき」になってくれる人であれば、誰でも同じように歓待してくれると思う。出会った人は真摯な人ばかりだった。今、石川町では、「がんばっぺ石川!」応援団を募集中である。団員になると、観光や物産購入で特典があるようだ。「石川町を応援してます。風評被害に負けないで!」合い言葉はこれだけだ。
石川町応援団募集のページへ

 日本中の人が、石川町だけでなく、被災地域のどこか一カ所の「応援団」になるというのはどうだろう。どんな形でもいい、そこの産物をずっと買い支えるといったことでも。そうすることで、復興に希望がもてるのではないだろうか。